昭和期に入って紙漉き生産者が減ると、昭和10年には阿字木野山製紙販売組合も解散し個人で販路開拓するまでとなった。戦前、阿字の生産者1軒の年収は2万円くらいと言われている。昭和13年で、 紙すきの12枚分(1 枚枠は73cmX97cm)が障子紙1帖で生産者の売値が5銭~6銭だと言われている。(現在に置き換えると、1銭が100円程度)機械すきの普及で、和紙の値段が下がり手すきの生産者が追いやられていった。
昭和30年代から40年代にかけて機械すきの西洋紙が大量に出回り、手作りの阿字紙の販路はますます狭まっていく。生活様式の変化で番傘、障子紙、温床紙の需要は減少し西洋紙やビニールの普及とともに、阿字紙だけでなく、国内の紙すきの里は次々と姿を消していった。また、紙すきの仕事は、きわめて労働集約的で朝早くから夜遅くまで厳しい労働環境の割には他と比して現金収入が少なく、収益の良い副業とは言えなくなってきた。
戦後の経済成長の中で府中市の大手企業も阿字に工場を進出することになったが、手取りのいい工場仕事にひかれたことも紙すきの衰退に大きく影響した。昭和34年の1月の毎日新聞の記事によれば、数百年間続いた原始的な手作り加工による和紙の伝統を受け継いでいる農家がわずか5軒になったと特集している。そこに、紙すき稼業を阿字地区で4代にわたって続けている西本伊之助(当時58歳)の仕事ぶりが紹介されている。「30数年間ずっと紙すきを続けられているが、その手さばきは見事なもので手数と労力を使い1枚1枚仕上げていく。集約的なものである。手加工による紙技術は非常に困難で、一定の厚さに立派な紙をすき上げるのに10年から15年の熟練が必要という。」数百年続いてきた手作り加工による紙づくりの技法を先祖代々受け継いで、その業を細々と続けている姿に、昔ながらの伝統の稼業を守り通そうとする執念を感じると書いている。(昭和34年1月17日、毎日新聞九十九記者)
昭和 43年には、阿字紙の最後の生産者であった上阿字の坂本茂雄さん(当時78歳)も廃業し、300年近く続いた阿字の紙漉きの火は消えた。