JAPANESE TRADITIONAL PAPER

阿字和紙工房事業について

広島県には手漉き和紙の二大生産地があります。一つは大竹市、もう一つがここ広島県府中市の協和地区

協和公民館にて阿字和紙工房を設置し、復活を遂げた阿字和紙のストーリーをぜひご一読ください。

阿字和紙工房

代表者 一般社団法人 協和元気センター 会長 田原 輝巳
所在地 広島県府中市木野山町48-1
   (協和公民館内)
TEL  0847-68-2121
Email  ajiwashi.genki@gmail.com
設立  2018年(平成30年)

ACCESS

〒729-3211 広島県府中市木野山町48-1

阿字和紙の歴史​

「阿字和紙」は、江戸時代に福山藩の特産として、2代藩主・水野勝俊がこの地域での和紙生産を奨励したことから始まった。阿字和紙は、高知の土佐紙とともに、かつては関西一円から南九州まで上質紙として知られていた。

生産は明治末期から大正・昭和にかけて最盛期を迎え、紙漉きに携わる農家は200戸を超えていたといわれ、この地域の伝統的産業として代々受け継がれてきた。
その後、戦後になり洋紙が普及していく中、阿字和紙は衰退し、昭和43年(1968年)に最後の生産者が廃業することで、紙漉きの歴史は一旦途絶えた。

江戸時代

阿字和紙は明治末年ごろから大正、昭和にかけて最も盛んに生産されており、阿字及び木野山地域一帯で紙すきに携わる農家は200戸を超えていた。
阿字紙は土佐高知の土佐紙とともに、かつては関西一円から南九州まで上質紙として知られていた。この歴史と伝統を持った阿字紙は協和地域の歴史的資産であり郷土の務り手もある。今は影も形もなくなった阿字紙を蘇らせる一歩としてその歴史を掘り起こす。

江戸時代、老中から出す文書を奉書といい、この文書を書く紙のことを奉書紙といった。奉書紙は、室町時代から越前で作られていたと記録されている。
福山藩においても、領内に出す下知状などの文書を藩内で生産した紙で記したいと、当時奉書紙の生産で全国的に名の知れていた越前に「年若く、りはつさかんなるものを2人」(小場家文書)を修業に行くよう命じている。 福山藩も奉書紙に倣って藩内で和紙の生産が始められるよう、 紙漉き職人を養成のため越前に派遣した。
福山藩の2代藩主水野勝俊は正保3年の書状の中に福山領内の山中の村々(神石·甲奴·品治·芦田)に楮の栽培を始めるよう命じている。江戸時代初期、福山藩の体制が固まりつつあるなかで藩内でも和紙の生産を試みたことがわかる。
そして、地理的·気候的な条件から福山藩の北端地の山間の村で、阿字紙として紙漉きがはじめられた。一説によると、 江戸時代初期(1650年ころ全国を行脚していた六部(お遍路さん)が阿字村に巡ってきて、 阿字川のきれいな水に魅せられ木野山の戸羽にとどまり紙を作り始めたといわれている。 江戸中期にかけて国内では農業の生産力も高まり、農村では換金作物や家内工業が発達しており、福山藩でも阿字村を中心に阿字紙が農家の副業として藩の保護の下で盛んになっていったと考えられる。府中地区で綿花の栽培とともに、糸をつむぎ、機を織る織物業や織機を作るための木工から発して家具生産が始まったのも江戸時代中期のころと言われている。

江戸時代の後期になると、商業·産業の発展とともに阿字紙が福山藩での特産物となっていく。阿字紙についての記録では、福山誌料(文化6年「1809年」福山藩の命で管茶山が編集)に藩内の特産物として書かれている。福山藩内で紙が生産されていたのは、阿字地区のみで、材料の楮は、河面村を中心に阿字村·荒谷村·木野山村に植えられていた。

阿字地区で阿字紙が発展した地理的·気候的条件としては、以下の4点があげられる。
①土地が酸性で、阿字川の豊富な水量は紙漉きの漂白作業に適していた。
②上下や甲奴から河面、 荒谷にかけて雁皮や楮が栽培されており、紙の原料が豊富であった。
③山間部で川の両側に山が迫り、山林が多く田畑の耕作地が少ないため農家の副業となった。
④福山、府中付近には、ほかに紙の生産地がなく販路が確保できた。

明治・大正​

明治期に入ると、紙すきの機械機器の発達改良や薬品の使用等と相まって耐久性があり色が白い特徴を持った紙が生産されるようになった。明治末期になると阿字の紙鹿きはますます発展し、上質の和紙として関西·九州方面まで広がり「寒すき紙」 として非常に珍重された。さらに明治 11年(1908年)には同業者が結集して阿字·木野山製紙販売組合が設立され販路拡張が進んだ。そのころから、障子紙、 温床紙、 雨傘用和紙等が、上質の阿字紙として広く珍重されるようになり西日本一円にその名を広めた。また、この時代は養蚕の盛んな時代で、 木野山村をはじめ備後各地で養蚕が盛んであった。養蚕農家は部屋を密閉するために部屋中に障子を張って年に2.3回は張り替えていた。阿字紙は引っ張りだこで、明治末期には地域の産業とも連携して最盛期を迎えていた。

明治から大正の初めにかけて、阿字村280軒のうち250軒(1901年農商務統計)が何らかの形で紙すきに携わっていた。紙すきの最盛期には、節句を休むだけでほとんど年中仕事をしていた。阿字村全体の年間生産量は、22万5千貫(843 トン)で、1日1軒で平均3貫目を生産していた。紙1貫目は3.75キログラムである。原料の楮4貫につき紙1貫の歩留まりであった。原料の格は、 阿字·木野山行勝では足らず、東城·三次·吉舎方面や久佐·河面、荒谷などの府中方面からも仕入れていた。大量に生産する過程で、材料を仕入れる仲買人、 和紙を作る生産者、そして和紙を売る行商人と分業化が進んでいった。木野山や行勝各地の農家では、田んぼのほとりや山間に楮や三藩·雁皮を植えて、冬の間の副業として格の皮をむいで川で洗い流し天日で乾燥させる材料作りが広まっていた。

府中の上本町で古くから紙を扱っていた「近惣」商店は、2代目児玉台次郎(1862~1943)の明治期以来より阿字紙を取り扱っていた。 阿字紙は地紙と言って好評で、上質の格を用いた傘紙は最も評判がよく最多であった。阿字紙の生産者は、馬に和紙を乗せて運んだり、 キエエコを背負って坂根峠を越えて荒谷から府中の近惣まで繰り出し、換金してもらった。帰りには、酒を一杯ひっかけたり、出口の餅を土産に坂根峠を越えて阿字に帰っていたという。 また、直接に阿字紙を売りに歩く行商も盛んで、大正末期にかけて阿字村を中心に300人の行商がいたといわれている。行商は備後地区だけではなく、広島県岡山県から中国地方全域や九州地方まで足を延ばしていた。阿字からは、キエエコ(背負子) で和紙を背負って歩いて行くものや、 自転車に積んで岡山や山陰の方まで行くものがいたといわれる。

大正期に入り、紙の需要が多くなるにつれて、 機械で渡いた紙が市場に出回るようになってくると、阿字紙の生産もピークを越え昭和30年代にかけて漸減することになる。

昭和

昭和期に入って紙漉き生産者が減ると、昭和10年には阿字木野山製紙販売組合も解散し個人で販路開拓するまでとなった。戦前、阿字の生産者1軒の年収は2万円くらいと言われている。昭和13年で、 紙すきの12枚分(1 枚枠は73cmX97cm)が障子紙1帖で生産者の売値が5銭~6銭だと言われている。(現在に置き換えると、1銭が100円程度)機械すきの普及で、和紙の値段が下がり手すきの生産者が追いやられていった。

昭和30年代から40年代にかけて機械すきの西洋紙が大量に出回り、手作りの阿字紙の販路はますます狭まっていく。生活様式の変化で番傘、障子紙、温床紙の需要は減少し西洋紙やビニールの普及とともに、阿字紙だけでなく、国内の紙すきの里は次々と姿を消していった。また、紙すきの仕事は、きわめて労働集約的で朝早くから夜遅くまで厳しい労働環境の割には他と比して現金収入が少なく、収益の良い副業とは言えなくなってきた。

戦後の経済成長の中で府中市の大手企業も阿字に工場を進出することになったが、手取りのいい工場仕事にひかれたことも紙すきの衰退に大きく影響した。昭和34年の1月の毎日新聞の記事によれば、数百年間続いた原始的な手作り加工による和紙の伝統を受け継いでいる農家がわずか5軒になったと特集している。そこに、紙すき稼業を阿字地区で4代にわたって続けている西本伊之助(当時58歳)の仕事ぶりが紹介されている。「30数年間ずっと紙すきを続けられているが、その手さばきは見事なもので手数と労力を使い1枚1枚仕上げていく。集約的なものである。手加工による紙技術は非常に困難で、一定の厚さに立派な紙をすき上げるのに10年から15年の熟練が必要という。」数百年続いてきた手作り加工による紙づくりの技法を先祖代々受け継いで、その業を細々と続けている姿に、昔ながらの伝統の稼業を守り通そうとする執念を感じると書いている。(昭和34年1月17日、毎日新聞九十九記者)

昭和 43年には、阿字紙の最後の生産者であった上阿字の坂本茂雄さん(当時78歳)も廃業し、300年近く続いた阿字の紙漉きの火は消えた。

府中市観光協会と連携

令和2年度から府中市観光協会と連携し、観光商品化のための課題解決に向けた取り組みを進めており、その一環として、全国の旅行代理店のモニターツアーを受け入れ、「観光客の受け入れ環境の改善」や、「観光客に買ってもらえるような商品の開発」など、今後の課題に関する意見を聴取した。